江戸時代、手錢家は大年寄など杵築の町役や出雲大社の役など様々な役を担っており、代々の当主達は、藩からの通達の写し、起こった事件のあらましなど主に公的な出来事についての記録を『御用留(ごようどめ) 』に、冠婚葬祭といった私的な行事や興味を惹かれる出来事などについては『萬日記(よろずにっき)』に、書き残していました。
現在、御用留は延享三年(1746)から明治三年(1870)にわたる約五十冊が、萬日記は享保からの百年分あまりが確認されています。 また、和歌や連歌、俳諧に関するかなり専門的な本など、様々な書物や写本が数多く残っており、何故こんな田舎にこんな本があるのか、と思えるようなものもあります。
そこで今回は、
【「御用留」から見えてくる江戸・大社】
【「萬日記」から見えてくる江戸・大社】
【江戸の教養・大社の教養】
という三つのテーマで、展示を行います。
御用留では、伊能忠敬ら天文方が測量に訪れた際の通達や記録などを展示します。
萬日記に書かれた私的な行事では、葬儀や法事について多くの頁が割かれており、婚礼については寛政元年、文化八年、安政四年と三度の記述があります。頂いたお祝いの一覧、式次第と出した主な料理と器、部屋のしつらえ、お手伝いの人達の配置とその人達への祝儀などについて書かれてあり、比べると違いがあって面白い資料です。その他、江戸中期に手錢家二代が防砂林の為に十年あまりかかって松を植林した記録などを展示します。
手錢家は町人の中でもある程度裕福な家だったようですが、裕福である故にそれなりの責任と義務も果たさなければならなかったことがこれらの資料から読み取れます。また、今でも辺境感の強いこの出雲の地にあって、江戸時代こんなにも素早く情報を得ていた事への驚きと、江戸の人々の努力に感心します。
和歌については、江戸時代の大社の人々には『和歌発祥の地である出雲』という誇りが強くあったのではないかと思われ、他の地域に比べて和歌関係の資料が残っている家が多いと言われています。
このような背景もあってか、大社では町民の間でも俳諧だけでなく和歌が盛んに詠まれ、江戸時代末期には大社の神官や藩の武士階級と町民が一体となった《杵築文学》と呼ばれる活動として花開き、多くの歌集を出版することになったのでした。そこで、今回は、江戸時代全国的に一般教養として寺子屋などでも用いられた四書五経や往来物などの教本や手本、実録物と呼ばれる読み物と、大社で教養として(多分)不可欠だった和歌に関する書籍(歌集や奥義書など)、そしてこれらを学んだ集大成として江戸時代末期に花開いた杵築文学活動の中で産まれた歌集の数々を展示します。

天文方の伊能忠敬達は測量の為に文化三年と一〇年の二回大社を訪れて手錢家にも泊まっています。御用留とそれに付随した綴りには天文方来訪に関して、接待などについての事前の藩の通達や、日程、滞在中の飛脚代や測量に使った材料費などが細かく記録されています。
このほか、藩の江戸屋敷が焼けた際の寄付の記録や、寛延五年初めに行われた杵築村(現大社町)戸数調査の結果、寛政五年外国船対策の為の船帳面の写しなどを今回は出しています。

手錢家四代・官三郎の死去に際していただいた香典の一覧。七頁に渡って百五十人あまりの名前と香典が並びます。そうめん、干しうどん、氷蒟蒻(こおりこんにゃく)など食品が多く金銭は少ないことなど当時の習慣や物の価値なども見えてきます。