第二展示室 写真
出雲地方の工芸は、松江藩七代藩主・松平不昧公の時代を始まりとして次第に発展してまいりました。多くの作品が不昧公の指導のもと、または不昧公の好みで制作されました。
第二展示室では、陶磁器、漆工、金工、木工など、美術工芸から日用の品々まで、時代としては、主に江戸時代から昭和初期までの作品、数百点を常設展示しています。
楽山焼
藩主の別荘のあった松江市の東郊、楽山に創窯されたため、楽山焼(らくざんやき)と呼ばれる。創窯は、初代藩主松平直政が転封してきた寛永十五年(1638)から慶安頃と思われるが、「らくざんやき」と称するのは、二代藩主綱隆が長州藩主に腕の立つ陶工を求めたのに応じて、倉崎権兵衛が延宝五年(1677)萩から入国して以降である。弟子の加田半六が二代を継いだが、四代半六で途絶えた。
楽山焼中興の祖・長岡住右衛門貞政は、享和元年(1801)不昧公に召し出され、楽山焼五代目として開窯し、専ら茶陶や不昧公の意匠による高麗の写しを焼いた。二代空斎は、布志名焼・土屋善四郎芳方の孫で長岡家の養子となり、藩命により長崎へ行き、色絵の技法を学んだ。それ以後楽山焼の絵附けは一変し、色絵の優れた作品が多く作られた。五代(貞政)以後代々住右衛門を名乗り、当代は楽山焼十一代・七代住右衛門である。
布志名焼
布志名焼は楽山焼と併せて出雲焼と呼ばれ、寛延三年(1750)に、船木与次兵衛村政が実子三人と布志名で開窯したのが始まりといわれる。船木家は民窯で、息子三人もそれぞれ窯業を営み旺時は九家に分窯した。
又、楽山焼が四代半六のお役御免で途絶えたのち後任として楽山焼焼物御用を勤めていた土屋善四郎芳方が、安永六年(1777)藩命により布志名へ引っ越し藩窯を開いた。その子善四郎政芳は、江戸大崎藩邸で京焼系統の茶器を、帰国後は楽山や布志名でお庭焼を焼き、不昧公から「雲善」の号と瓢印をいただいている。享和二年(1802)に開窯した永原与蔵は、文化十三年(1816)不昧公に召し出され、帯刀御免御茶碗師を仰せつけられた。
このように、布志名焼は藩窯と民窯が共存した陶業集団のようなもので、独特の黄釉を特色とし、不昧公時代は、楽山焼が高麗写しを主としたのに対し、安南、交趾など南方系の茶器の写しや京風のものが多く、その後も色絵、仁清写・乾山写などの京風陶器や、伊万里風、瀬戸風などの作品が多く造られた。明治に入ると輸出物として黄釉地に本金その他で文様を施した美麗な陶器なども手がけ一時栄えたが、大正初期になると廃窯が 相次いだ。現在は船木、土屋の二軒のみが残っている。
漆壺斎
小島家の初代清兵衛は京都の塗り師堅地屋清兵衛の子であったが、松平直政公が信州松本より出雲に転封になった翌年の寛永一六年(1639)、招かれて松江藩の塗師棟梁となったと言われ、その後代々家職を継ぎ小島清兵衛を名乗っていた。
五代清兵衛は、松平不昧公に従って江戸へ行き当時随一の名工と言われた原羊遊斎(はら ようゆうさい)に師事して蒔絵を学び、不昧公お好みの茶器などを数多く製作している。
漆壺斎(しっこさい)の号は、不昧公の命により製作した「秋野」大棗が公の趣意にかない、いただいたものといわれ、爾来小島家は漆壺斎を襲名して当代・七代漆壺斎に至っている。また、小島家は塗師の家柄であることを大切にしており、各代とも優れた塗りの技を継承し、塗りの佳品も代々残している。
初代は特に真塗りに秀でており、写真の棗でも、美しい黒塗りのなめらかさや、甲に施され仄かに浮き出る菊、寸分違わぬ合口などに、その技量が発揮されている。
勝軍木庵
初代勝軍木庵光英 (1802-1871)
本名三島屋宗悦といい、松江市白潟灘町に住む蒔絵師であったが、九代藩主斉斎(直指庵)の命で江戸の蒔絵師・梶川清川に師事した。その後帰国し、直指庵の好み物を多く作ったので、直指庵は彼に「勝軍木庵」の号を与えたと言われる。棗・香合・印籠等小物に傑作が多い。
二代勝軍木庵春光 (1848-1906) は、初代の息子で幼名宗太郎または英一といい、勝軍木庵を襲名した。のち姓を勝木と改め大阪で蒔絵を続け、明治三十九年没した。